何年か前、カリタス南相馬でぶどうの木を植えることになり、「どんな品種がいいですか」と聞かれて、
即座に「カベルネソーヴィニヨン」と答えたわたしは貪欲な人間だなあ、とつくづく思います。
やっと小さな実がなりました!
でも、これがぶどう酒になるのはいつのことでしょう⁉︎
●年間第18主日
聖書箇所:コヘレト1・2, 2・21-23/コロサイ3・1-5, 9-11/ルカ12・13-21
2022.7.31元寺小路教会・八木山教会にて
ホミリア
「支配」という言葉を聞いていい印象を持つ人は少ないと思います。もともと悪い意味はなく、だからこそ「ホテルの支配人」というような言葉もあるのでしょう。しかし、実際の政治の面では悪い支配ばかりを経験してきているので、人は「支配」と聞いたら悪いものと感じてしまうのです。
聖書には「神の支配」という考えがあり、人間もその神の支配に与って、他の被造物を支配する、というような表現もあります。聖書の中で「支配する」と訳される言葉は、もとの意味としては「王となる」ですが、そこには「王として他のものに力を振るい、他のものをコントロールする」という以前に、「王としてすべてのものに配慮し、すべてのものを大切に守る」というニュアンスがあります。わかりやすく言えば、羊の世話をする羊飼いのイメージです。
ですから聖書でもカトリックの典礼でも「支配」という言葉が使われていたのですが、今年の待降節から変わるミサの式文では支配とは言われなくなりました。集会祈願の結びの箇所、これまではこうでした。
「聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」
これが変わります。
「聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。」
「支配しておられる」が「治められる」に変わったのは、日本語のニュアンスの変化のためです。言葉のニュアンスは時代とともに変わっていくのです。
さて、今日の福音と第二朗読に出てくる「貪欲」という言葉も、現代になってニュアンスが変化した言葉だと思います。元々は仏教でもキリスト教でも悪い意味の言葉でした。ところが現代では良い意味で使われるようになりました。典型的なのは「貪欲に知識を吸収する」というような言い方です。あるいは「オリンピックで貪欲にメダルを狙っていく」というような言い方もあるでしょう。欲の中にも知識欲のようないい欲もあるので、それは貪欲に求めてもいい、むしろ貪欲に求めるべきだ、というのが現代の風潮です。確かにそう言えないこともないとは思いますが、いつの間にか悪い意味での「貪欲」はほとんど使われなくなり、いい意味だけで使われるようになった現状はどうなんでしょうか。そこには特別な背景があるように感じられます。
そもそも現代の資本主義社会、消費社会というものは欲望なしに成り立たない社会です。人間の欲望を良しとして、それを煽る中で成り立っている。金銭欲、権力欲、食欲、性欲すべての欲望を肯定した上にこの消費社会には成り立っているのです。
コロナで冷え込んだ消費をいかに回復させるか、が今や大問題になっています。旅行に行きたい、美味しいものを食べに行きたい、人がそのように貪欲でなければ社会は成り立たないとされているのです。そもそも「貪欲は悪」という考えは現代には合わないのではないでしょうか。
一方で、今の日本はデフレだと言われます。賃金も上がらなければ物価も上がらない。その中で消費も低迷している。経済的な格差は広がり、貪欲になれるのはお金持ちだけで、貧しい人は生きるために最低限のものに甘んじている。「貪欲はいけない」と言われても、「そもそも貪欲になんかなれない」という人も多いのではないか。
でもそれは福音的なのでしょうか?「貪欲になる余裕がないから貪欲じゃない」というのは決して望ましい状態じゃない。経済的な余裕が少しはあって、その中で自分の生き方を選ぶことができるような自由が人間には必要でしょう。
すべての人が関係する「貪欲」の問題もあります。みんなが快適な生活を求めて、エネルギーを無限に生み出し、消費しようとする、というようなあり方の問題です。そのような生き方はどこかで無理が来ると言わざるを得ないのではないでしょうか。
わたしは福島の原発被災地で働いていますので、あの原発事故がどれほど多くのものをその地の人々から奪ったかを見てきました。電力不足だから原発は必要だという動きもありますが、エネルギーを求めて原発に依存した結果が、あの福島の原発事故だったということは忘れてはならないと思います。
また今、世界中で問題になっていますが、地球温暖化というのも、無限のエネルギーを求めたことによる、別の悲惨な結果でしょう。
問われているのは、本当にわたしたちが神の前に豊かなのか、ということです。実は、「神の前に豊かになる」とは、人間の足りなさを知るということではないかと思います。人間の力、人間の努力の限界を知ること、それが神の前に豊かになること。
どんなに頑張っても、「お前の命は今夜とりあげられる」
どんなに頑張っても、原発の安全性は確保できない。
どんなに頑張っても、地球環境を犠牲にしないで、これ以上の豊かさはない。
そういう限界を知ったときに、逆に今与えられているものの素晴らしさに気づく。そこから生まれるのが「神への感謝」です。「それでも自分が今、生かされていること」への気づきから賛美と感謝が生まれます。その賛美と感謝をもって生きることが「神の前に豊かになる」ということではないでしょうか。わたしたちが毎週毎週ミサに来る、それは「神の前に豊かになる」人生の見事なしるしなのです。
そして本当に神の前に豊かになり。感謝と賛美を持って生きるときに、「人との分かち合い」の素晴らしさも見えてきます。福島県浜通りというちょっと田舎の世界では「おすそ分け」の文化が生きています。これは「貪欲」とは正反対の文化です。そこにも素晴らしいものがあります。
本当にわたしたちが神の前に豊かになることができますように。